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東京地方裁判所 昭和62年(合わ)15号 判決

主文

被告人を懲役七年に処する。

未決勾留日数中九〇日を右刑に算入する。

理由

(犯行に至る経緯)

被告人は、出生地である仙台市内の中学校を卒業して、印刷工、飲食店・パチンコ店の従業員などの職を転々とし、昭和六一年一月ころから、いわゆる簡易宿泊所に泊りながら、日雇人夫として、土木作業などに従事していたが、同年一二月三〇日に、肩書住居である南千住宿泊所二階七三号室に投宿した後は、肝臓を患つていたこともあつて働きに出ず、同室内一一番ベッドで飲酒、ごろ寝するなどの日々を送るうち、昭和六二年一月上旬になつて、同室の通路を隔てた向かい側にある九番ベッドに宿泊していたAと話を交わすようになり、同人の紹介で、一日だけ、東京都内の土木作業現場で共に日雇の仕事をしたこともあつたが、同人には、酒に酔うと、周囲の人間に対し、誰彼構わず「馬鹿野郎」「ぶつ殺す」などと暴言を吐く癖があり、向かい側のベッドにいた被告人も、たびたび「この乞食野郎」「起きろ」などと怒鳴られたり、はし箱で小突かれたりしていたところ、同月一六日午後六時ころも、前記一一番ベッドで眠つているところを、酔余前記七三号室に戻つてきた右Aの怒声で、目を覚ますに至つた。

(罪となるべき事実)

被告人は、昭和六二年一月一六日午後六時三五分ころ、東京都荒川区南千住二丁目一〇番三号南千住宿泊所二階七三号室一一番ベッド上において、横臥していたところ、突然、A(当時四〇歳)から、掛布団を剥ぎ取られ、「ぶつ殺してやる」「起きろ」と怒鳴られ、その後頭部をアルミニウム製灰皿で殴打され、その背中を数回膝蹴りされ、さらに、起き上がろうとした被告人の右脇腹を強く膝蹴りされるなどの暴行を受け、右脇腹に強い苦痛を覚え、とつさに右Aを向かい側の九番ベッド上に突き飛ばしたが、その際、いわれのない暴行を受けたことに対する憤激と共に、同人が加えてきた暴行がいつになく強度であつた上、被告人が右Aを突き飛ばしてしまつたため、乱暴者である同人が激昂して被告人に対しより強い攻撃を加えてきて、右Aにそれこそ殺されかねないとの危惧を覚え、同人の暴行から自己の身体を防衛しようとする意思から、とつさに、同人に対し殺意を抱き、自己の枕許付近の棚に調理用として置いてあつた刃体の長さ約一〇センチメートルの果物ナイフ(昭和六二年押第二〇一号の1)を右手に持つて、右九番ベッドに近づき、防衛に必要な程度を超えて、右果物ナイフで同人の頸部などを数回突き刺すなどし、よつて、翌一七日午後四時三三分同都文京区千駄木一丁目一番五号日本医科大学附属病院において、同人を右総頸動脈損傷などの傷害に起因する外傷性ショックにより死亡させ、もつて、同人を殺害したものである。

(証拠の標目)〈省略〉

(争点に関する判断)

一殺意の有無について

被告人は、当公判廷において、被害者に対する殺意を否定し、弁護人も、「被告人に殺意はなかつた。仮にあつたとしても、未必的殺意にとどまるものである」旨主張するので、この点について判断するに、前掲の関係各証拠を検討すれば、本件犯行に使用された凶器が、刃体の長さ約一〇センチメートルの鋭利な果物ナイフであつて、十分な殺傷能力を有しており、また、被害者の創傷の部位、個数、形状、深さなどに鑑みると、被告人が、被害者の枢要部(頸部)に対し、何ら手加減することなく、執拗な攻撃を加えたことが認められ、判示の偶発・刺激的な犯行動機の存在及び被告人が捜査段階においては殺意を肯定する内容の供述をしていたことなどを併せれば、被告人の確定的殺意を優に認定することができる。

二因果関係について

次に、弁護人は、本件被害者の死亡については、事件直後に現場にかけつけた救急隊員が同所からの出発に手間どり、被害者に迅速な救命医療を施す時期を遅らせたことが影響しているのであるから、被告人の行為との因果関係を否定すべきであると主張するが、被害者の死亡が、病院段階でのいわゆる医療過誤の問題を容れる余地のない、被告人の攻撃により生じた傷害に起因する外傷性ショックによるものであり、また、被害者の創傷の部位、個数、形状、深さなどに鑑みると、被害者の被つた傷害が、短い時間内で、通常人を死に至らしめる程度の重篤なものであつたことが明らかであり、被害者の死亡と被告人の行為との因果関係は優に認められるものであつて、仮に、弁護人主張のように現場にかけつけた救急隊員が迅速に行動しなかつた事実があるとしても、右因果関係の存在に影響を及ぼすものとは解せられず、弁護人の主張は理由がない。

三過剰防衛について

また、弁護人は、被告人の本件行為が、被害者からの急迫不正の侵害に対して、自己の身体を守るために行われたものであつて、過剰防衛に当たる旨主張するので、この点について検討してみるに、被告人の捜査段階及び当公判廷における供述その他の関係各証拠によつて明らかなとおり、本件の端緒は、寝ている被告人に対して、酒に酔つた被害者が理由もなく判示のような暴行を加えたことによるのであつて、右暴行の態様・程度、被害者の性癖、両者の体力差などを考慮すれば、被害者が向かい側のベッド上に突き飛ばされた以後の段階においても、なお、被告人の身体に対する侵害の急迫性が存続していたということができ、また、被告人が本件を敢行するにあたつては、被告人の捜査段階における供述にあらわれているように、被害者から理不尽な暴行を受けたことへの憤激に駆られての攻撃の意思があつたとはいえ、同人が、右手小指の先を欠き、かねてより暴力団関係の知人の存在をほのめかし、日頃、酒の上での粗暴な振舞も多かつたことなどから、被告人において、被害者からさらに暴行を加えられるおそれを強く抱き、自己の身体を防衛しようとする意思をも併せて有していたものと認められるので、防衛の方法・程度において、著しく相当性を欠くものがあつたとはいえ、本件行為は、過剰防衛に当たるものということができる。弁護人の主張は理由がある。

(法令の適用)

被告人の判示所為は刑法一九九条に該当するところ、所定刑中有期懲役刑を選択し、その所定刑期の範囲内で被告人を懲役七年に処し、同法二一条を適用して未決勾留日数中九〇日を右刑に算入し、訴訟費用は、刑事訴訟法一八一条一項但書を適用して被告人に負担させないこととする。

(量刑の理由)

本件は、酒に酔つた被害者から殴る蹴るの暴行を受けた被告人が、自己の身を守る意思に併せて憤激の念に駆られ、同人に殺意を抱き、傍らにあつた果物ナイフでその頸部などに反撃を加えて殺害したというものであるが、その態様は、人体の枢要部である頸部に、最も長いもので約16.5センチメートル、最も深いもので約一一センチメートルの刺切創数か所を生ぜしめるなど、執拗・残酷なものであつて、いかに防衛行為としての一面からなされたにせよ、素手の被害者への対抗手段において相当性を欠くこと甚だしいといわざるをえず、同人の実兄や前妻の処罰感情も強く、また、被告人には財産犯・薬物事犯の前科があり、肝臓が悪いのに昼間から飲酒するなど、その生活態度にも問題があつたことなどをも考え併せれば、その刑責は重いといわざるをえない。しかしながら、他方において、本件は被害者が酒に酔つたあげく被告人に対し暴行を加えたことに起因するものであつて、過剰防衛が認められる事案であるほか、犯行に使用された凶器は、調理に用いるため、たまたま身辺に置いてあつたもので、犯行に計画性は認められず、また、被告人には、粗暴犯の前歴がなく、それまで被害者からの酔余の暴行を幾度も我慢し、同人との争いごとを避けてきた経緯がうかがわれ、犯行後も、潔く、宿泊所の副支配人に対し、警察に通報することを依頼しており、公判廷においても、自己の行為により被害者を死に至らしめたことを反省するなど、被告人に有利な事情も認められるので、これらを総合考慮の上、当裁判所は、主文掲記の科刑を相当と思料する。

よつて、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官松本光雄 裁判官髙梨雅夫 裁判官手塚稔)

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